本研究計画書のタイトル(仮)
米国と欧州における近代写真の父 (副題)スティーグリッツの遺伝子
研究計画書
序文.修士課程で研究したことの概要をのべる
・修士課程修了までに修士論文としてアジェとスティーグリッツの1890年頃から1910年頃までの活動をまとめたが、この後、1920年代から1930年代にかけてはスティーグリッツの作風が大きくかわる。即ち、主として雲を被写体とする、『等価』(Equivalent)という些か哲学的な作風へと変化する。修士課程で履修した書籍、増補20世紀写真史 ( 伊藤俊治、2022年、p.016 ) には1893年に撮影された名作『終点』を撮った時のことをのちに「私はその光景を見て、私の心と親密に結びつくものを感じました。そしてそこに投影された自分の内部にあるものを撮ろうと決めたのです。」と語った、とされている。つまり1893年の時点でも被写体こそ違ってはいるものの、後々到達する『等価』(Equivalent)という概念の萌芽がスティーグリッツの心の中にあることを示唆している。
ここで筆者自身の論文*についてのべる。筆者の地元鎌倉での制作活動期はここ十年での時間軸で言えば、コロナ前の数年間、コロナ中、コロナ後に跨っている。最近の個人的な制作活動としては、被写体を鎌倉、特に北鎌倉周辺に求めており「歳時記」的な個展を数回催した。この個展用作品の制作活動に関しては時間的には殆どがコロナ中の時期にあたっている。ご存知のとおりに鎌倉は首都圏の小さな観光都市だ。しかしコロナ中とコロナ後の状況は都市の規模こそかなり違うとは言え、上述の伊藤俊治の著書の冒頭の章「都市の時間と象徴-1890→1910」(p.011) が述べている19世紀末~20世紀初頭のパリとニューヨークの風景を、『同一の人間』の目で見たとすればそのように感じるのではないか? こういう発想で1890年~1910年の同時期に仏国パリで活動していたウジェーヌ・アジェ(Jean Eugene Atget、1857-1927)と米国のニューヨークで活動していたアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz、1864-1946)の『ピクトリアリズムとストレート写真』の対立になぞらえて(この対立構造自体は、スティーグリッツが作り出したものと言えるが)『コロナ中の鎌倉とコロナ後の鎌倉』をポートフォリオとして組み立てる、 つまり両者の写真から感じられる意図や雰囲気の違いをコロナ中とコロナ後の鎌倉の風景の変化に反映させる、との意図で論文とそれに添付するポートフォリオの構成を意図したものである。
少し説明を加えると上段のおける『同一の人間』とはこの場合スティーグリッツの事である。彼の1890年から1910年の間の活動をみるに、ヨーロッパ留学からニューヨークに戻った直後の同地の大きな変容により受けた、言わば、カルチャーショックのため、その作風が一時的にピクトリアリズムからストレート写真に大きく変貌している。筆者の意図としてはこの間(コロナ前、コロナ中、コロナ後)の鎌倉の象徴的な景観の変化を撮影することにより、(大まかにはなるが)前半の静謐な雰囲気のする作品はアジェの見ていたパリの雰囲気を、後半の躍動的な印象のする作品はスティーグリッツの作風の変化を、表現しようとしているとみればより分かり易いであろう。
*タイトル「アジェのパリとスティーグリッツのニューヨーク」、(副題)「コロナ中の鎌倉とコロナ後の鎌倉」
1.在学一年目の研究計画
作品の部
実際に「雲」をモチーフとして撮影をし、スティーグリッツの仕事を追体験を試みる
論述の部 (以下の赤字のハイライトで示した示した3点を研究し論述する)
1. 何故スティーグリッツは Equivalent ( =等価 )の被写体に雲を選んだのか? 2. ピクトリアリズムへの回帰していくような傾向を示したのは何故であろうか? 3. アジェとスティーグリッツの関係は?
1. 何故スティーグリッツは Equivalent ( =等価 )の被写体に雲を選んだのか?
上記の伊藤俊治の著書のⅠ- 1 – 6 「写真の象徴性」(p.035~039) に核心的な記述があるので(長文にはなるが)中略せずにそのまま転記する。
(転記始め)
Ⅰ- 1 – 6 「写真の象徴性」
別の意味で、スティーグリッツもまたこうした写真の象徴性に強くひきつけられていたといえるだろう。これまで彼は移民たち、労働者、市街風景、建設中の摩天楼といった大都会の動きをモチーフにしてきたが、第一次大戦後、山中にかかる虹や森の露や流動する雲や日没の光といった風景を撮り始め、そこに写真の象徴の次元を浮上させようとしていく。(インデント)もともと彼は写真の中に潜む象徴性を意識し、ポートレイトを撮る時でさえ、一枚の写真に、撮った人の出生から死に至るまでのすべてを包括しなければならないという考えを持っていたが、世紀の変わり目前後は、写真の自立性のための運動やストレート写真とピクトリアリズムの論争などにまぎれてその問題に正面きって取り組むことができなかった。(改段落)しかし第一次大戦中の『カメラ・ワーク』誌の廃刊や (291) ギャラリーの閉鎖、さらにはジョージア・オキーフとの結婚や人妻ドロシー・ノーマンとの恋愛といった個人的な問題もからんでニューヨークという都市を離れると、新しい角度からこの特性へアプローチしていくことになる。(改段落)特にスティーグリッツのこうした写真への姿勢は “イクィヴァレント (equivalent 等価)”という概念になって結晶化していった。 “イクィヴァレント” とは事実の客観的な記録ではなく撮る者の解放された身体感覚を移入させた写真映像を使って、西洋的な自我意識を超えた新しい無限の大地(アメリカ)のなかでの芸術観を生みだすためにスティーグリッツが導入した写真へのひとつの眼差しである。(改段落)ひと言でいえばその写真は自己の内的な経験と等価値なものであり、スティーグリッツは写真のシンボリズムの最初の具現者として現実の形象に精神の照応が可能なことを見つけ、雲や空や湖のモノクロームの諧調の世界に彼の感情を写しこもうとした。白と黒の微妙なグラデーションの写真を人間と世界の “永遠の関係の記録” とみなし、一枚の写真に自己と世界を結びつける能力を与え、人間の内部に閉ざされている流動的な次元を導きだそうとしたのだ。それは絵画や文字といった他の表現の美学的な規範とは異質な、生の現実態を通過させた写真による象徴であり、人間の手の加えられていない世界の形によって啓示された人間に内在する意味のあらわれとも呼べるものであった。(改段落) 「私は何十年もの間、写真について何を学んだのか、それを知るために雲を撮影したかったのです。雲の写真を通じて私の哲学を示したかったのです。」(改段落)そうスティーグリッツは言う。彼によれば、“カメラ・ワーク”とは、自分の全存在で見たものであり、個人の経験のリアリティを透かしだしているものであり、見ることの洗い直しをせまるものである。(改段落)こうした新しいカメラのメカニズムが浮上してくる背景には、自己の身体、自己の眼で見たり感じたりすることが困難になってゆく都市と時代の流れがあることも見逃してはならないだろう。新しい都市の状況が、「見る」ことの意味を大きく変え始めていた。スティーグリッツはこうした見ることの機能が転換してゆく時代のなかで、最も深い感情と結びついた 【見ること】 を身体化する装置とその瞬間を記録できるメディアとしての写真の可能性を追い求めていったともいえるだろう。(改段落) “イクィヴァレント”の写真のほとんどは、ニューヨークからほど遠からぬ山中にあるジョージ湖付近で撮影されたものであるが(1924年のオキーフとの結婚当初から、二人は毎年春に、19世紀後半のアメリカの風景画家たちをひきつけたリゾート地であるこのジョージ湖で過ごし、この生活は彼の死まで続いた)、その写真は、写真の美的機能とは対象に潜む潜在的なイメージを引き出すことにあるのであり、時空間に自己を刻みつけることによって形象に生命の流動があらわれることを明確にうちだしていた。(改段落)ボストン郊外のウォールデン・ポンドという森の小さな湖のほとりに住みついた文学者 D.H.ソーロウ は、澄み切った空や森を映しだす湖を“宇宙の瞳”と呼んだ。工場や港湾、駅舎や群衆といった初期の都市景観をうつしとった写真から、初源的な身体感覚の鼓動を伝えてくるような山や虹や森や雲を撮った写真へと移り変わってゆくスティーグリッツの軌跡を見てゆくと、彼がアメリカの自然へと入りこんでいった超越主義者(トランセンデンタリスト)たちの伝統にそって、その“宇宙の瞳”を最後にはとらえようとしていったことがわかるかもしれない。(改段落) “カメラ・ワーク” による“イクィヴァレント”とは、いわば自然と人間との神秘主義的な合体感であり、宇宙と自己との瞬間的な感応状態の記録といっていいのだろう。その意味で、スティーグリッツの写真は西洋の自我意識や絵画の美学を超えようとした、まさに写真らしい写真だった。彼は自分の写真を写真そのものにしてゆくプロセスのなかで“イクィヴァレント”という概念を生み出し、新しい写真表現を確立しようとしたのである。 (転記終わり)
2. ピクトリアリズムへの回帰していくような傾向を示したのは何故であろうか?
筆者の修士論文の 第3章 の 第2項 ( P.10 ~ P.11 の中ほど ) に下記のような件があり、現時点では上の研究テーマの回答になり得る内容が含まれていると考えるので、中略せずに全文転記する。
(37) 同上の引用文献から引用、Page s1、8~17行目
(38) 同上の引用文献から引用、Page s2、12~13行目
(39) 同上の引用文献から引用、Page s2、15~17行目
(40) 同上の引用文献から引用、Page s5、4~7行目
(41) 同上の引用文献から引用、Page s5、13~15行目
(転記始め)
2.スティーグリッツについての考察 引用文献、及び引用 (36) 、 (37) ~ (41)
スティーグリッツは1864年「ニュージャージー州ホーボケン生まれの米国籍であるが、両親はドイツ出身であった。父エドワードは、1850年頃ドイツからアメリカに渡ってきて、精密機械の仕事をしていた。南北戦争が始まると、北軍に参加している。ドイツ生まれの ヘドウィッグ・ウェルナーと1862年に結婚、その後は、毛織物業に変わり、大成功した。二人の間には、6人の子供が生まれるが、アルフレッドはその第一子であった。間もなく、一家は、ニューヨークのマンハッタンに移り、子供たちの教育はニューヨークで行われた。1879年にニューヨーク・シティ・カレッジに入学した頃はとくに数学に興味を持っていた。両親はアメリカに同化していたが、母国であるドイツへの志向が強く、それがアルフレッドの人格形成に大きな影響を与えたとおもわれる。
1881年、父エドワードは、事業から引退すると子供たちに最高の教育を受けさせるため、家族を連れてヨーロッパに渡った。そして、アルフレッドを、ドイツ、カールスルーエの ギムナジウムに入れ、徹底的なドイツ教育を受けさせた。さらに彼はベルリン工科大学に 進み、機械学を専攻した。」 (37)
「1890年、妹フローラが亡くなったことがきっかけになったのか10年間のヨーロッパでの生活にピリオドをうち帰国してニューヨークに住むことになるのであるがまだヨーロッパへの未練はたっぷりであった。」 (38)
「だが、帰国して触れたアメリカは、彼にとって、ヨーロッパとのギャップが想像以上に大きかったようである。米国の写真界は、ヨーロッパに追従する絵画的指向が全盛であったし、絵画や芸術そのものも保守的であるように感じた。」 (39)
スティーグリッツはパリ或いは欧州でのピクトリアリズム写真や写真家たちへ対抗意識もあり、彼の米国での仲間を引っ張って行くためにもカメラクラブ・オブ・ニューヨークを設立し、その機関紙「Camera Notes」を発刊して“ピクトリアリズム‐ストレート写真”という二項対立の図式を作ったが、1905年にはロンドンの写真グループ「リンクト・リング」に米国支部を作ることを提案しており、この頃には上記の二項対立もあまり必要性がなくなったとも言えよう。また作風も少しずつ変わっていった感があり、*ジョージア・オキーフをはじめ女性のヌード写真、家族のポートレート、牧歌的な風景写真等、アジェの作品とは、比較における対立点が次第にと希薄になっていったように見え、むしろヨーロッパ時代の作風にかなり回帰していったように見える。
(*ジョージア・オキーフ Georgia O’Keeffe、1887-1986)
スティーグリッツやその家族は、第1次世界大戦への直接的な関わりは無かったようで、米国本土も戦火にさらされることは無かったのは周知のことだが、「情熱もやや衰えてきたようであった。その原因のひとつは、第一次世界大戦にアメリカが参戦したことである。 両親の母国であり自分も学生時代を過ごしたドイツと戦うことに苦悩する。その上 『291』のビルの取り壊しも、いかんともし難いことであった。スティーグリッツは自分の制作活動に集中する。」 (40)「《終点》も《三等船室》も、彼の思想を十分に象徴しているが1917年から撮り始め1924年に結婚した画家のジョージア・オキーフを主題とした一連の作品や、雲を主題にした《イクィヴァレント》は、その思想がさらに明快である。」 (41)上記引用の最後に言及されている《イクィヴァレント》に対してのように、ほとんど哲学的とも思える作品に傾倒していく ・・・
(転記終わり)
3. アジェとスティーグリッツの関係は?
第3章 当時のアジェとスティーグリッツを取り巻く環境と作品への影響
両者が制作活動をした19世紀末~20世紀初頭は、それまでパリが担ってきた世界の首都としての役割を、次世紀の即ち「二十世紀の首都」の役割を次第にニューヨークに奪われてゆくそのような時期に、アジェは廃れ逝くパリで、スティーグリッツは急発展していくニューヨークで活動していた。またきな臭い戦争の足音もヨーロッパでは大きくなり、パリで大型カメラを駆使していたアジェはスパイの嫌疑をかけられたこともあったと言う。かたや、アメリカでは大不況の影響等により経済的な混乱はあったのであろうが、地勢的にアメリカ本土が戦場になる心配はほとんどなかった。この時期にスティーグリッツが活動の本拠地をニューヨークに移したのは、結果的には正解であった。
引用文献 (3) ウジェーヌ・アジェ回顧 ㈱淡交社 東京都写真美術館企画・監修 1998年9月13日 初版発行
(6) 同上の引用文献から引用、Page9、17~22行目(右段)
(7) 同上の引用文献から引用、Page10、6~21行目(左段)
(31) 同上の引用文献から引用、Page9、28~31行目(右段)
(32) 同上の引用文献から引用、Page15、18~26行目(左段)
(33) 同上の引用文献から引用、Page11~Page12、Page11、8~13行目(右段)、 Page12、1~17行目(左段)
(34) 同上の引用文献から要約、Page215~Page220
(35) 同上の引用文献から引用、Page15、30~34行目(左段)
アジェの私生活だが、「演劇活動を続けるなかで、アジェは1886年生涯の伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォス(本名ジュヌヴィエーヴ・ヴァランティーヌ・コンパニヨン、1847-1926)に出会う。アジェ29歳、ヴァランティーヌ39歳で、彼女には8歳になる息子がいた。その後も二人は巡業を続け」 (6)、彼女は「名声を得るが、アジェは巡業途中の1887年頃に演劇界を去る決心をする。喉の疾患が原因とされる。」 (31)。「1890-1891年頃、一人でパリに戻ったアジェは、最初画家になろうと試みるが、その才能のないことを知り、アパートのドアに「芸術家のための資料(Documents pour artistes)」という看板を掲げ、植物、動物、風景などの、芸術家たちのモチーフとなる写真を売り始める。」 (7)。
「1926年、以前から床についていた、40年間連れ添ったヴァランティーヌが亡くなった。アジェより10歳年上の79歳であった。アジェは演劇に挫折して以来、常に屈辱感、劣等感を抱きながら、生活のために金を稼いできた。演劇人として認められなかった彼が芸術家を相手に写真を売るという現実は、辛いものであったに違いない。そしてその屈辱感は、彼を頑固で暗い性格にしていった。」 (32)
そのような辛い心持ちのままアジェは廃れ逝くパリを、彼の願望や勿論生活上の理由もあったようだが 、「私は20年以上の間、私個人の考えからパリのすべての古い通りの写真を撮り続けてまいりました。それらは18×24センチのガラス乾板によるもので16世紀から19世紀までの美しい一般建築物に関する芸術的な資料です。古い館、歴史的或いは珍しい建物、美麗なファサード、美麗な戸口、ドアノッカー、古い給水場、昔風の木々や錬鉄製の階段、更にパリの教会の内部(全体と芸術的な細部)例えば、ノートル=ダム寺院、サン=ジェルヴェ=サン=ブロテ教会、サン=セヴラン教会、サン=ジュリアン=ル=ボーヴル教会, サン=テチエンヌ=デュ=モン教会、サン=ロック教会、サン=ニコラ=デュ=シャルドネ教会等があります。これら芸術的で参考資料となる膨大なコレクションは、すでに完成しています。私はすべての“古きパリ”所有しているといえます。高齢になるにつれて、つまり70歳近くになり、私には相続人も後継者もいませんので、これらの写真がその価値を分からぬ者の手に渡り、誰にも利用されることなく、最後には紛失しかねないこのコレクションの将来を思うと心配ですし、苦しくもあります。」 (33)、出来るだけ写真という媒体に留めおこうという思いで作品を制作したのだろう。パリ市歴史図書館に5500枚もの写真を売却したことが結果的に当時のパリの様子を視覚的に伝える重要な歴史的資料になったのは言うまでもない。
実際、パリの街を区画ごとに網羅的に撮影していったアジェの作風や被写体は、彼の経済状況、健康問題、欧州での政情不安等の要因から多少の変化は感じられるが、劇的な変容という程でもなく、第一次世界大戦勃発まではこの傾向が続いたと言えよう。 (34) それ故スティーグリッツ等によりアメリカで何が起こっていようとあまり気にかけていなかったのではなかろうか。
上記の引用(33)は「歴史記念物保存館の館長への手紙」(1920年11月12日付け)からの抜粋で、アジェはかなりの安値で作品を殆ど売却してしまうのだが、彼にもこの『館長』にも戦争の足音が、第1次世界大戦が始まる1914年以前から、かなり間近に聞こえており、やがて写真どころではなくなると予見していたのであろう。その意味で、スティーグリッツの場合のように、何年から何年までをあまり詳しく気遣うことはしない。(実際には、二度の世界大戦による戦禍のためにパリの街が破壊しつくされて廃墟となることはなかった。)
「伴侶を失って(1926年)以降アジェは途方に暮れて食欲もなくなり、外出することもほとんどなく、孤独と失望の日々を過ごすことになった。アジェ自身、急に老いを感じ気力もなくなり重いカメラを持ち歩くことはできなくなったと述懐している。」 (35) 翌年8月、アジェは息を引き取った。没後の彼の評価を考えると気の毒な晩年であった。
ここで本論述課題の研究結果論をこの時点での予想を述べると、直上のハイライト部分と序文におけるハイライト部分から類推すれば、お互いに殆ど意識していたような関係ではなく、スティーグリッツは元々ピクトリアリズムを志向をする傾向も心中に内在させていた。但し、次年度の課題とする予定であるが、両者に強く影響を受けたと思われる、マン・レイやベレニス・アボットといった逸材を輩出することなった事には、次年度の研究計画の説明のためにここで触れておきたい。
『序文におけるハイライト部分』 ー 米国のニューヨークで活動していたアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz、1864-1946)の『ピクトリアリズムとストレート写真』の対立になぞらえて(この対立構造自体は、スティーグリッツが作り出したものと言えるが)
在学一年目の研究計画(終わり)
2.在学二年目の研究計画
作品の部
・筆者の修士論文において、その論旨により被写体は全て鎌倉市内に求めたが、今回はその制限を外し出来るだけ実際に現存する被写体を撮影する。修士論文では表現しきれなかった超高層ビルやその周辺の様子、ウォーターフロントの賑わい、蒸気機関車等、の予定である。(特に「都市写真」の分野においてベレニス・アボットがスティーグリッツから引き継いでいると思われる作風の写真撮影の実践を試みる。)
・マン・レイはスティーグリッツの作風から直接的に受けた影響は少ないように思われるので、二十世紀初頭のアヴァンギャルド風の作品制作にチャレンジする。
論述の部 (以下の赤字のハイライトで示した示した3点を研究し論述する)
1. アジェと マン・レイ 及び ベレニス・アボットとの関係や影響 2. スティーグリッツと マン・レイ 及び べレニス・アボットの関係や影響 3. マン・レイ 及び ベレニス・アボットの作品について
1. アジェと マン・レイ 及び ベレニス・アボットとの関係や影響
上記の伊藤俊治の著書のⅠ- 1 – 7 「都市からの眼差し、都市への眼差し」(p.039~040) の記述を(長文にはなるが)中略せずにそのまま転記する。
(転記始め)
スティーグリッツとアジェはほとんど同世代であり、パリとニューヨークという場所は離れていても、十九世紀末から二十世紀初頭のすさまじい速度で変貌してゆく時代状況のなかで写真活動を続けていったという共通点を持っている。(改段落)彼らは都市という概念の変容していくプロセスに自己の関心を収斂させていった。そして最後にはアジェは文化の形成と崩壊の背後に潜む物の気配を見つめようとし、スティーグリッツは都市から脱け出て自然との全体的合一感を表象しようとした。(改段落)アジェの友人であり、発見者でもあり、のちにニューヨークの大変貌を映しとめることになるベレニス・アボットはアジェがなぜ写真を撮るようになったかの動機をこう語っている。(改段落)「少しばかりの金を持って彼はパリへ出た。アジェはたくさんの絵描きの友達を持っていたし、それに生来の絵画的感覚もあったため、彼はまちがいなくその仲間の一人になろうと考えていた。彼はもうパリの内外の美しいもの、珍しいもの、歴史的な様々なものの多くの蒐集おこないたいという願いに燃えた。無限のテーマ!近代都市の形象を後世に伝えようとするのに、今日、写真家以外の誰にそれがなしとげられるだろう。彼にとって、また我々にとっても幸運なことにその直感は確かなものであった。彼は写真を撮ることに決心した。」
(転記終わり)
2. スティーグリッツと マン・レイ 及び ベレニス・アボットの関係や影響
上記の伊藤俊治の著書の III – 6 「もうひとつの眼差し」(p.124~127) の記述をそのまま転記する。
(転記始め)
エヴァンスの友人であり、マン・レイの助手としてパリに長くいたベレニス・アボットもまた、1929年に帰国後、写真の新しい記録性を確認するために、不思議なダイナミズムを秘めて変動してゆくニューヨークという都市を、その大都会の表面ではなくその隠された精神を写しだすべく、社会的な意図なしに撮り始める。「一つの都市の肖像をつくることは一生の仕事であり、都市は常に変化しているから、一枚の肖像では足りない。都市にあるあらゆるものは、まさにその都市の物語の部分なのであるー煉瓦と石と鋼鉄とガラスと木の都市の肉体、 “生きて呼吸している男と女” の都市の血液、街、展望、パノラマ、空から見た姿と地下からの表情、高貴なものと賤しいもの、高い生活と低い生活、悲劇、喜劇、不潔、騒音、摩天楼の堂々とした塔、貧民街の惨めな人々、動いている人々、家にいる人々、遊んでいる人々……」(改段落)アボットは当時の写真界の主導権を握っていたスティーグリッツらの芸術写真思考を否定し、アンセル・アダムスらがおし進めていた技術尊重主義をも非難し、グラフ雑誌で展開されていたテキストに回収されてしまう写真群にも強く反撥して、建設と破壊をくりかえすニューヨークの生態イメージを長期的に追い求め、生きた世界を再建させる自立するイメージ論を1939年の写真集「変わりゆくニューヨーク」で決定的なものにした。それは写真で何をするか、写真でどう記録するかという写真の記録性を根本から見つめ続けた精神的営為によるたぐいまれな成果であったといっていい。(改段落)「人間の“眼”とはその背後にある理念とでもいうべきものよりは秀れていない点を常に知っておくことです。写真家は日常の社会を、あるいはその背後にある現実をいつも探求していく人でなければならないと思います。それをくりかえすことによって、現実をどうきりとるかという能力をとぎすまし、観察することができるようになり、率直に、直接的表現がおこなわれることによって時代の律動がとらえられるはずです。」(改段落)アボットはこの一連の写真によって純粋イメージの根本的なパターンを探る方法を認識し、現実の記録が実は比類のない美をたたえていることを証明し、そのことによって、常に更新されてゆくべき写真の記録性の再定義を行っていた。写真の記録性が新しい形で認識されていったのである。(改段落)特筆すべきことはエヴァンスもアボットも、社会化され日常化された視覚を脱皮して事物にせまり、完結しないものをあふれださせようとするアジェの写真のコンセプトをそのまま受け継いで都市を記憶しようとしていることだろう。(改段落)エヴァンスはソルボンヌの聴講生であったパリの遊学時代にアボットを通じアジェの写真にふれて強い感銘を受け、アボットはいうまでもなくアジェの発見者であり、彼のポートレートを撮った唯一の写真家である。アジェの影響を受けた二人のアーバン・フォトグラファーがこのフォト・ジャーナリズムの時代の最中に、あふれるグラフ雑誌の写真群から自立し、静謐なイメージを携えて脱けだしてくるのはひどく象徴的なことである。(改段落)彼らはともに、見る者に環境自体を認識させてくれるもうひとつの環境として写真を浮上させている。それもF64グループのように視線を自然に向けるのではなく、あくまでも自分たちが現に住んでいる都市を見つめ続けることによってその背後に深遠な空間を揺り動かし、もうひとつの環境を志向した。(改段落)そして、アボットの林立するビルや地下鉄の改札口や建築現場も、エヴァンスの街路のゴミや大工場の景観やガラーンとした郊外の住宅の室内も、アジェのパリの裏街やさびれた廃道が人間が見あたらないのに人間の存在を強くかもしだしているように、人間たちがいないがゆえになおさらその人間たちのありかを彷彿とさせる特殊な眼差しを共有しており、それはまるで人間中心の世界が過ぎ去ってしまったがゆえに、なおさらかつてあったその人間の世界を静かに呼び起こすような不思議な調子を帯びて見る者にせまってくる。
(転記終わり)
写真の作風と上記により、スティーグリッツとマン・レイはニューヨークでの接点は「291」ギャラリー等を通じてあったようだが影響は希薄であるように思われる。他方ベレニス・アボットは彼女の思想性はさておいて、摩天楼の作風等はスティーグリッツのそれに似通ったものを感じる。
3. マン・レイ 及び ベレニス・アボットの作品について
・スティーグリッツとアジェ両者の影響をうけたマン・レイとベレニス・アボット
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